アガサ次郎の推理日記

推理小説好き(初心者)です。主に読んだ本の感想を書き込んでいきます。

『十日間の不思議』 / エラリー・クイーン

 

これは感想が難しい作品です。

一旦記事は上げますが、また書き直したり別で記事を書いたりするかも知れません。

それくらい、個人的には見極めが難しい作品です。

以下感想を書いていきますが、自分の知識・認識に誤りがあったら申し訳ありません。

ただ、なるべく率直な感想を書いていきたいと考えています。

 

まず、所謂「後期クイーン問題」の発端となった作品だったということに、あとがきを読んで初めて気が付きました。

この「後期クイーン問題」についてはネタバレありで後々書くことにするとして、この作品内で起こった問題部分を振り返っての自分の率直な感想は「なんだ、その程度のことをネチネチ言ってたのか」です。

このブログでは何度か書いてますが、そもそも鮎川哲也が問題にしているような「フェアか?アンフェアか?」みたいなことは個人的には極めてどうでも良い視点で、そもそも自分の推理小説の楽しみ方として「探偵目線で推理する」ということは割と副次的な部分なものです。

それよりも、謎自体・物語自体にいかに没入できるかということの方が遥かに大事なことで、そんな文学的な視点は自分の楽しみ方としては最も遠い位置にある気がします。

なので、本作で問題されている部分も自分はそれが「後期クイーン問題」にあたる部分だとは思わないで、すんなり受け入れて読み進めましたし、だからこそあとがきまでそのことに気が付けなかったです。

ただ、本作のあとがきはとても知見の深まるようなことが書かれていて、その中で「後期クイーン問題」についての発端と新本格派と言われる作家陣の扱い方に関する言及があったのですが、それを読んでものすごく合点がいきました。

これを読んで、鮎川哲也の言いたいことも理解できた気がしますし、法月綸太郎の言いたかったことも何となく理解出来た気がします。

そういう意味では、あとがきまで含めてミステリーファンは必読の一冊と言えるのかも知れません。

ということで、「後期クイーン問題」は一旦ここで話を終わりたいと思います。

 

さて、肝心なのは本編の内容です。

まず、ここでもあとがきのことに触れておきたいのですが、この本編の内容についてもあとがきを読んで物凄く合点がいきました。

どういうことかと言うと、それは『災厄の町』以降の作品においてより文学性を追求した作風になっているということです。

この説明は個人的にはすごく納得いきました。

そして「だからそんなに好きになれないんだ」という結論に至ってしまいました。

はっきり言いますが、本作は好きな作品ではありませんでした。

 

まず作中の物語自体が中盤まで本当に退屈でした。

本作は十日間それぞれの一日が各章に分かれていて、一日目~十日目までの全十章(厳密には違う)になっているのですが、六日目に入ったところで「まだあと5日間も残ってるのかよ・・・」とゲンナリしたのを覚えています。

しかし、直後の七日目から物語が急展開を迎え、解決編へと向かう八日目・九日目へと収束していきます。

ただその解決編もあんまり面白くなくて、十日目が残っていることから何となく流れを察してしまいました。

本作の好きになれなかった理由の一つが、台詞の書き方です。

解決編でのエラリーの話し方がくどいなというのは前々から感じていたことではあったんですが、本作は特に気になってしまいました。

ゴールから逆算してエラリーに喋らせているような、要は話し方がメチャクチャ不自然に感じたんですよね。

特に十日目のエラリーについて。

これは結構気になりました。

で、それも踏まえてなんですが、やっぱり全体的に文学性の高い作品だと思うんです。

謎解き自体も人間関係も登場人物の少なさも。

それとエラリーの心情が太字で強調されるところがあったり、この破綻した人間関係の中に身を置くエラリーという構図自体がもう文学っぽい感じするんですよね。

物語が無理矢理続いてる感じもして、「こんな状況、普通に投げ出して帰るでしょ」っていうのが自分の率直な感覚なんですよね。

ハワードにもサリーにもそんなに義理を通すような関係でもないし、エラリー自体が不退転な状況でもないし、だからこそ退屈に感じてしまうのです。

エラリーがそこまでのお人良しだとは思ってなかったです。

 

そして、ここからはネタバレありでいかせてもらいたいと思います。

ちょっとこの先の感想を書くにはどうしてもネタバレを含めないと自分には無理そうなので。

 

 

以下、ネタバレあり!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まぁ本作は解決が二度行われるという点で『災厄の町』と同じ構成になっている訳ですが、意味合いは全くの真逆です。

『災厄の町』ではエラリーが全てお見通しの上で敢えて嘘の解決を提示し皆を納得させ、後から真相を知る権利があるとエラリーが判断した者にだけ真の解決を話すという流れになっています。

ところが『十日間の不思議』は違います。

エラリーの一度目の真相披露は、エラリー自身もそれが正しい物であると信じて披露した推理であり、実はそれさえも犯人側に誘導された偽の真相だということにエラリーはおろか、真犯人以外は誰も気が付きません。

そして時間が経ってエラリーが実は自分の推理が誤りだったことに気が付き、真犯人を追い詰めるという流れになっています。

この「犯人に操られる探偵」というのが「後期クイーン問題」の一つの問題提起であるようです。

ただ自分が納得出来なかったのは、そんな流れのことよりも真犯人に責任を迫るエラリー・・・はっきり言ってしまえば自害を強要しているようにしかみえないエラリーの振る舞いです。

そもそも話は少し戻って、ハワードが自殺してしまった流れから納得出来ません。

いや、警官一人付かせただけで、こういう流れになる危険性は十分予知できたはずのなのに一体なぜ?

これは映画『セブン』にも感じた怒りです。

もう十日目を描くための強引な展開の持って行き方にしか自分には思えません。

そして、それを踏まえての命を持って償えと言っているようにしか見えないエラリーの言動。

結局本作で著者エラリー・クイーンは探偵を神の領域まで押し上げたかったんでしょうか。

この展開を読んでしまうと「後期クイーン問題」もあながち分からないでもない。

なんでこういう結末にしたのか、自分にはその意図が汲み取れませんでした。

だからこそ、自分は「文学性が追求されている」という書評に納得してしまったんです。

 

それと、もう一つ残念に感じているのはサリーの描き方。

最初はエラリー同様「なんて魅力的なキャラなんだ!」と思ったのに、そこからどんどん転落していくキャラクターに・・・。

あの最初のサリーのまま、物語を観測したかったです。

 

あとは夢遊病的な部分の描き方もちょっと浅い感じがしましたね。

これ読んで横溝正史の『夜歩く』ってやっぱりスゲーなと逆説的に感じました。

 

 

 

 

ということで、殆ど勢いで感想を書き綴ってしまいました。

読む意義はあったけども・・・という一冊。

色々な方の書評も読み漁りましたが、全体的に人気は高そうな作品ですね。

ちなみに次のクイーン作品は未読のの短編集を読もうかなと思っています。

ちょっと、このままライツヴィルシリーズを読み進める気にはなれないんですよね。

一回リセットしたい気分です。

まぁ、それもいつ読むかは未定なんですけどね。

あ、でも本作を読んで次に読む作品はこれだ!とインスピレーションを得て決めることができました。

購入済みの本は積み本になってしまいますが・・・。

 

そういえば最後もあとがきの話になってしまうんですが、クイーン作品には他作家から影響を受けたとおぼしき作品があるとのことで興味深く読ませてもらいました。

それが『災厄の町』だったらクリスティの某作品、『フォックス家の殺人』だったら某作品ということで実際には作品名が具体的に書かれているんですが、後者は分かるけど前者は「そうか?」っていう感じがありました。

個人的には全然違うと思うんですが、いかがでしょうか。

気になる方は是非この新訳版を読んでみてください。